第2部完結。チェンソーマンを振り返りながら『幸せっていろいろあるなぁー』って思った話

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『チェンソーマン』という漫画作品に対する、世間の様々な評価には関心がない。とっても個人的な視点で作品の思い出や感じたことをつらつらと書いただけなので、設定など記憶違いがあってもあしからずご容赦ください。

チェンソーマンという作品について

私は長年『週刊少年ジャンプ』を愛読していて、チェンソーマンは連載開始から1部完結までを毎週本誌で読んだ。単行本は読んだことも買ったこともない。熱心な読者とは言えないだろうけど作品に対する思い入れは人一倍ある、と自分では思っている。

独特な世界設定やキャラクタ達が話題を集め、開始早々に人気作となりアニメ化もされた。アニメ主題歌中盤に流れる『幸せになりたい』というフレーズはとても印象的で、『この作品のテーマの一つは幸せについてだろう』とぼんやり感じていた私の心にひどく馴染んだ。

主人公のデンジ君は孤児で、学校には行っていない。死んだ父親の残した借金返済のため昼はヤクザの雑用を請け負い、夜は町外れの物置のような小屋で眠る。寝る前、相棒のポチタに『今夜見たい夢のプラン』を話すのが一番楽しくて幸福な時間なのだ。

そんな中、デンジ君が『チェンソーマン』という特異な存在となったことから物語は動き出す。悪魔を討伐する組織に所属したデンジ君=チェンソーマンの存在を巡って、激しい戦いや国家間の策略、時には甘い誘惑に巻き込まれてゆく。

所属する組織の命令に従う日々はヤクザの言いなりでいた頃とあまり変わらない。忠実な犬として主人に付き従う。その一方で生活は楽になり思い描いてた夢もいくつか叶ったけど、デンジ君の心身はだんだんと疲弊してゆく。『これが望んでいた生活だったっけ?』と自らとポチタに問いかけるが明快な答えは見つからないまま、安穏と殺戮の日々を過ごす。

デンジ君は優しい人だと思う。作中では絶えずひどい目に遭い、裏切られ、精神を壊されるのだけど、心から人を憎んだり呪ったりはできないようだ。1部の最終決戦はデンジ君なりのまごころを込めた方法で決着した。

2部で登場する『よたか』が意味するもの

1部完結後、2部は『ジャンプ+(プラス)』という集英社公式アプリで連載が始まった。2部のストーリーの冒頭と終盤、それぞれの場面で『よたか』という鳥が象徴的に描かれている。『ああ、よだかの星をモチーフにしているんだな』と思った。

『よだかの星』は宮沢賢治の短編小説で、図書館で何度も借りて読んでいた時期がある。個人的に思い入れのある作品のひとつだ。

心根の優しさよりも美醜やお金や身分が重視される世界で周囲から理不尽な仕打ちを受けるよだか。よだかは羽虫を食べる生き物だけど、口に飛び込んだ羽虫をゴクンと飲み込むたびに罪悪感が湧いてくる。他者の命を奪いながら生きることがつらい。消えてしまいたい。そんなよだかの苦悩を描いた内容だった。

チェンソーマン2部では、デンジ君が自覚なく善良な青年の命を奪っていたことをある悪魔から告げられ、よだか同様に罪悪感に苛まれる場面がある。

生物は他者の命を糧にしないと生きられないし、人間は社会の中で他者と干渉し合いながらじゃないと生きられない。この世界がそうである以上、個人の幸福と世界ぜんたいの幸福を両立させるのは難しいし、じゃあどちらを選択するかと問われると、その返答もとても難しい。

生きることは罪を重ね続けること。それでもまだこの世界で楽しいと思えることがあるなら、生きる。デンジ君は自分が罪深いことを認めて涙と嗚咽をもらしながら、それでも幸せな暮らしを夢見て生きることを選んだ。

『幸せ』と呼ばれる、本質的な幸せとは遠い価値観

ここで少し、現実を生きる私たちの一般的な幸せの概念について触れてみたい。

幸せとひとくちに言っても世の中にはいろんな幸せのかたちがあると思う。例えば

  1. 世間で一般的に定義された幸せ
  2. 本能的な欲求を満たす幸せ
  3. 観客を必要とする幸せ

とか。(上記は私が社会活動の場で目にすることの多い幸せのイメージを羅列しただけで、学術的な分類とかじゃあありません。)

『世間で一般的に定義された幸せ』はその時の社会状況で変わるけど、例えば高学歴で大企業に就職するとか、結婚して家庭を持ってマイホームに住むとか。自分じゃなくて世間の価値観だから、この基準だけで人生設計をすると後でミスマッチが起きやすい。

『本能的な欲求を満たす幸せ』は食欲や性欲など。人類はその歴史の大半が飢餓との戦いだったので即エネルギーとなる糖質への欲求が強い。脳が本能的に求める食事は大昔には有効だったけど、この飽食の時代では一転命取りになる。

また食欲や性欲を満たす時に働く脳の快楽中枢は厄介で、その部分が活性化するたび受容性は鈍り、麻痺していく。前と同じ内容じゃ満足できなくなるうえ依存性もあるから、『もっとたくさん欲しい!』と脳からの指令がエスカレートしやすいのだ。こういった原初の欲求こそが生物の幸福の本質だと論じる方々は、当人はそう感じていなくても不幸であわれなものだと私は思う。

最後の『観客を必要とする幸せ』はブランド品や趣味・嗜好にお金をかけて他者からの評価で感じる幸せ。他人が良いと思ってくれそうな状態が本人にとっても心地よいらしいが、とにかくお金がかかるわりに意外と錯覚であることが多い。

欲しいものは買えばいいしやりたいことはやればいい。けど、『その買い物は本当にあなたが欲しいものなの?広告やSNSを見て欲しいと思わされているだけじゃないの?』と感じる場面がよくある。観客の目ではなく自分の心と向き合えば、必要なものはそんなに多くないことに気づくだろう。

『チェンソーマン』に話を戻すが、デンジ君は本当の幸福を感じるにはほど遠い環境に身を置いていたと思う。ずっと誰かの支配下にいて、人生の主導権を他者に握られていた。チェンソーマンになるとその状況はさらに色濃くなり、デンジ君個人の存在は無視された。

自分を見失っている人間が幸福の姿を捉えることは難しい。代わりに、上述したような『幸せっぽいけど本質的な幸せと程遠い価値観』はよく見えるようになる。

物語の終わり、人生の始まり

2部の物語のラストでデンジ君を取り巻く世界は変わった。相棒ポチタの切ない選択によりチェンソーマンの存在は消滅し、デンジ君は一人の青年としてようやく自分自身の人生を生きられるようになったのだ。私はそれが心底嬉しかった。ちょっと変な話だが、デンジ君のお母さんのような心境で物語の終わりを涙まじりに見届けた。

世間や他人のものさしではなく自分のものさしで行動し、迷いや違和感を感じるたびに下手くそでも情けなくても自分なりの言葉で想いを吐露した。そんな誠実でひたむきなデンジ君が好きだ。

彼は新しい人生で沢山の夢を見ながら生きていくだろう。そんな日々がずっと続いてくれたらいいなぁ、と私は本気で願っている。

でもそれらの夢が叶うかどうかについては興味がなくて、どっちでもいいよねって思っている。だって自由気ままに自分らしい夢を見る人生は、それだけでとっくにまぁまぁ幸せなのだから。